社会と生きる

世の中を変える前に、自分が変わりたい。

読書◇『破戒』島崎藤村

『破戒』/島崎藤村

 

読了に1年ほどかかりました。

少し読んで注釈へ飛び、少し読んで注釈へ飛び…という読み方をしていました。

意味を知らない言葉がたくさんあったので。

内容を大まかにでも理解できているのか、登場人物の心情をとらえられているのか、筆者が伝えたかったことが私に届いているのかは正直わかりません。

ただ、衝撃的な一冊でした。

 

この本では、新平民  という差別用語が多用され、差別があって当たり前の時代背景のもとに書かれています。

主人公の丑松は、教師。

新平民の出身であり、父親から自分のルーツを他言しないように強く言われていました。

他言してはいけない。自分の本当の姿を知られてはいけない。だけどそんな世の中はおかしい。それでも一人で社会の風潮を変えることはできない。

同僚も、大学時代の友人も、丑松が新平民であることを知らずに関わっています。

丑松を取り巻く人々の、新平民に対する侮蔑的な態度は端々にあらわれているのですが、彼らにとってはそれが当たり前なのです。

人が構築した考え方を変えることの困難さを感じました。

その考え方が当たり前だと思って生きているのだから、違う考え方があるなどと思いもしないのです。

丑松自身も、世間に差別や偏見が蔓延ることを「当たり前」として目の当たりにしており、それが当然だとどこかで諦めて生きてきたのではないでしょうか。

「仕方ないのだ」と。

この「仕方ない」という言葉は結構厄介で、

私がこれまで何度も使ってきた言葉です。

もう使いたくありませんが、仕方ないからと諦めて悲しい思いをしたことが多々ありました。

ときには仕方ないと割り切ることも必要ですが、自分に対して仕方ないという言葉をかけるのは寂しいことです。

「私だから、こんなこと言われても仕方ない」

「私だから、こうなって当然だ。仕方ない」

後ろ向きな「仕方ない」は、もう嫌ですね。

 

…と、話が逸れましたが。

仕事の関係で全国部落解放運動(青年部)に参加したことがあるのですが、私の知らないところで部落という言葉は生きているし、心の中に根付いている方も多くいるのだと知りました。

無知な私には多くは語れません。

 

差別はいけない 。

文面や言葉では、当たり前のことです。

子どもの頃から多数の人がそう教えられていると思います。

だけど、本当に私は差別をしていないでしょうか。

自分と他者の違いを無意識に順位づけ、見下してはいないでしょうか。

自分が必要以上に下手にでる癖も、ある意味差別なのでしょうか。

いつのまにか、「○○だから」と決めつけてはいないでしょうか。例えば男性だから、女性だから、見た目がどうだから、とか。

 

カテゴライズも差別の一種?それは違うな。

人と関わっていく上でカテゴライズすることはあるのですが、自分の勝手な感情や考えによって相手に不当な扱いをすることが差別だと思います。

「自分の勝手な感情や考え」に加えて、

「不当な扱い」

というのがキーワードなのですが、不当な扱いっていうのも様々ですしね。

人間だから人によって態度を変えることはあって当然だと思います。ただそれが妥当であるか。

相手の存在を尊重しているか。

 

とかなんとか、思考があちこちに飛んでいきます。渦に飲み込まれていきますが悪い気はしません。

今よりも知識があればこの本の読み方や感じ方も変わっていくと思います。

 

また読み返…1年かかるのかな。